おつかれさまです。
いきなりクライマックス
まぁいきなりクライマックスというか俺としたら冒頭
「西片、夏、始まるね」
っていう高木さんの声と同時に「劇場版からかい上手の高木さん」タイトルドーン!!と出るところね。開始3分くらい?そこがこの作品のクライマックス。正直言うと、その瞬間がすべてというか本質というか。
そのあとの話はね、あってもなくてもみたいなもんなんですよ(何が?!)。このあと70分くらいは寝ていても”オッケーよ”なんてなんて強がりばかりを俺も言いながら(小沢先生どうもすいません)です。
その開始3分に1900円払うかっていったらまぁアレですけど、ふたりの夏物語が始まる、恋の予感。安全地帯的に
「恋の予感がただかけぬけるだけ」
ってやつですよ。それだけで十分なの。この先どうなるんだ?!ってところが良いわけで実際にはどうなろうか、そんなことは知ったこっちゃねぇんだよって感じ、わかりますかね?!わからないと思います。わかっていただけないと思います。
松本隆先生仰るところの
WAKUWAKUさせてよ
DOKIDOKIさせてよ
ってことなんです。
なぜ なぜ あなたは
「好きだ」と言えないの
これだよこれ。
「好きだ」
という手垢まみれの言葉。そんなありきたりな使い古された言葉。だけど見えない言葉。それを探す旅なわけですよ、西片と高木さんのね。
翔んで夏シマシタじゃねぇんだよ。小豆島はふたりの愛ランドじゃねぇんだよ(CHAGE先生どうもすいません)。俺としたら劇場版の週替わりEDは全曲安全地帯でもよかったくらいだね。ちょっと劇場版のEDチョイスのセンスは小奇麗すぎる。
中学生日記に期待しすぎ
まぁ中学生のふたりに何を求めているんだというか、あれこれ求めすぎなんだろうけども、今、劇場では老若男女問わず劇場版「からかい上手の高木さん」を観ながら大粒の涙を流し、客席からの欠伸いや嗚咽で失神寸前。オーディエンスの慟哭で映画の台詞が聴き取れないくらいになっているわけじゃないですか(嘘)™。
なんで欠伸いや嗚咽(嘘)™をこらえているのかなっていうと、西片にしろ高木さんにしろ選んでないんですよ。まったく選んでない。答えに辿り着いていないの。言ってみたら
DEPARTURES(arrival ver.)
みたいなもんですよ(何が?!)。どっちだよっていう。はじまりなの?おしまいなの?出発も到着も同じところなんだよ。それってはじめからそこにいたってことじゃないの?
西片には高木さんしか、高木さんには西片しかいなかったの。辿り着いてないどころか、そもそも出発すらしてねぇ(そうか?)。ひとつの選択をすることは他の選択をしないことなんだけど、ふたりにはそれがない。何も失うものがないのに、失うことを恐れすぎなのよ。
ふたりにとってメリットしかないんだよね。そこを勿体ぶられてもね、ふたりの行く末自体はとっても退屈(失礼)。当人たちにとってはラブ・ドラマティックであるわけですが、観ている方からするとね、ズバリ退屈。収まるところに収まるだけだからね。作り手側からしたら
「何やってんだ、コイツら(ニヤキュン)™」
なんだろうけど受け取る側からすると
「何やってんだ、コイツら(欠伸)™」
意外性ってのが全くない。周囲の人たち含めて健康的なんだよね身体的にも精神的にも。「闇」とかそんなオーバーな話じゃないんだけどw中学生がそんな抱え込んでいるものがあるのかと言えば、そんなものはなくて良いのかもしれないけどね。
はじまりからおわりまで公認カップル(死語)、いつもふたりつかず離れずでしょ。そんなわけで、やたら夏だとのたまうわりにピリ辛スパイシーさってのは皆無。これはダイスケ的にもオールオッケーじゃないはず。いや当人たちにとっては色々あるんだけどw作劇的にというか。
自分の気持ちを上手く言葉にできない、モヤモヤしている西片がいつも通りにからかってきた高木さんをいきなりビンタする(昭和かよ)とかさ。劇場では
「こんなの『からかい上手の高木さん』じゃない!!」
って賛否両論が巻き起こるくらいの冒険はしてもいい頃だったと思います、はい。まぁ賛否というか否しかないだろうけどw
実は
最初は、後期高齢者が昔を懐かしむための映画かと思っていたんだけど、どっちかというとw若い人向けだったね。道徳の教科書を読んでいるみたいな、とでもいえばいいのかな。
ネタバレしませんが
まぁここからはじまり、だから西片と高木さん、ふたりがとあるスタート地点、未来を意識するところ、に辿り着いたという意味では
DEPARTURES(arrival ver.)
であっているとは思うんだけどね(何が?!)。
誰かと話をしたい時に、それって何か答えを知りたかったわけじゃなくて、声が聞きたかっただけというかね。それだけでよかったのに、さして意味のなかった質問に丁寧に答えてくれた感じ。この映画はそういうところがあるよね。別に何かを知りたかったわけじゃない。
「あぁそうなんす・・・」
としか言いようがない。そこは別にいいよってね。
小豆島ことガンダーラ
この小豆島ことガンダーラのルールというか世界観がわからないもんだから(原作未読)、西片と高木さんの関係は古い言葉でいうと
「ずっと友達以上恋人未満」
みたいなところで劇場版はそこから
DEPARTURES(arrival ver.)
って(しつこい)ことでいいのかな。金鳥の夏、日本の夏、中三の夏っていうかなんだかそこに一生懸命なこだわりを、さらに全編にわたって見せてくれるんだけども、パンチが足りないわパンチが。
「顔はマズいからボディにしな」
的なね。いやそんな話じゃねぇだろって言われたらおっしゃるとおりでございます、はい。
いやそれでも
何が足りないってさ
あと1歩前へ進めばわかるの
それともあと1歩下がればいいの
っていう「とにかく無性に…」(Straight Run)さが足りない。西片は高木さんを、高木さんは西片をすでにお互いに独り占めしているからさ。不安な描写ってのがあっても軽薄。漂ってこないわけですよ。何がとは言いませんけどもまぁ余韻というか残り香的な。
「俺はそれでも高木さんが」
「わたしはやっぱり西片が」
って観客に思わせるような劇じゃないとダメでしょ。もうほんと全然ダメ(失礼)。何回も劇場に足を運んでやっと辿り着いた感想が
「もうほんと全然ダメ」
って・・・。そこは大人だからとか中学生だからとかじゃなくて劇だからね、ちゃんとやらないと。
え~総評
正確に言えば「今風の」余韻も残り香もあるのだけれど、それを素直に受け入れるには自分が歳をとりすぎたというのか時代が違いすぎるというのか。
特別な瞬間もそうでない瞬間もあまりにも手軽に記憶ではなく記録にする、そんな毎日じゃ思い出の欠片の重さが違うでしょ。良い悪いじゃないんだけどね。
「真っ直ぐ来いよ」
ってより
「真っ直ぐしか来ようがない」
だもんで、これでいいんだろうけど二人の恋の行方とか「行くべきところへ行ってまいります」と最後の挨拶に「そらそうだろ・・・」としか言葉がでてこない、そんな映画だったね。
原作あるし終了しているわけでもないから無難にしかできないんだろうけど。むしろ原作の範疇を飛び出して、やらかしてこそ一回ポッキリの中三の夏じゃねぇのかよ。なんてね。
あるわけないよねぇ。西片も高木さんも何の不自由もしてないんだものw